ひっくり返れば浮き世。

書評を中心とした読書ブログ。評論、小説、漫画、詩歌など、幅広く読んでいくつもりです。

『書斎のポ・ト・フ』

 対談と鼎談の間にある面白い相違は、二人の時と三人の時で異なる「呼吸のリズム」によるものが大きいように感じます。こちらの『書斎のポ・ト・フ』には、同人仲間だった谷沢永一、向井敏、開高健の三人が1980年の秋に行った書評鼎談が収録されています。谷沢と向井の読書対談である『縦横無尽』に触発された企画であるものの、前作を読んでいないと分からない点などは特に見当たらないので、別に続篇というわけではないみたいですね。ちなみに、『書斎のポ・ト・フ』の単行本は1981年に発売されたのですが、それが文庫化されたのは2012年と、実はかなり最近のことなのです。その時点では既に鼎談を行った三人がみんな世を去った後だったため、文庫版解説は演劇研究家の山崎正和が担っています。

「感想」を先に読む場合はクリック

 
内容紹介


『八丁堀のホームズ*捕物帳耽読控』

 日本独自のジャンルである「捕物帳」について扱った段。捕物帳とは、謂わば西洋の探偵小説を、義理人情や風物といった「江戸風物詩」で以て翻案したものです。捕物帳では、警察組織、トリック、人情……とミステリー小説の要素としての妙味をうまく醸し出している部分は大いに評価されるべきだ、という主張には大いに賛同。なんだかんだ言って、義理と人情の世界観はとても心地良いものだと私には感じられます。しかし、ハードボイルドの表現に至っては「気取り屋」止まりで、上質のハードボイルドを書いた日本の小説家は山本周五郎ただ一人であると開高は断言します。山本周五郎は三人からの評価がかなり高いのが、少々意外な感じがありました。大衆文学の作家だからと言って無暗に軽視したりしない三人の批評眼には好感と信頼を覚えます。ちなみに「捕物帳」という言葉は歴史上には存在しない岡本綺堂の造語であるようです。実在したのは『鬼平犯科帳』でお馴染みの「長崎奉行所”犯科帳”」なのだとか。

主に取り上げた本……『捕物小説名作選』池波正太郎・選、『半七捕物帳』岡本綺堂、『右門捕物帳』佐々木味津三、『銭形平次捕物控』野村胡堂、『顎十郎捕物帖』久雄十蘭、『なめくじ長屋捕物さわぎ』都築道夫、『耳なし源蔵召捕記事』有明夏夫

 

『虹をつかむ男たち*ロマン・ピカレスク頌』

 世間一般でいう悪党を主人公に据えた悪漢小説についての段。悪漢小説には「悪漢だからこそ分かる社会の断面」と「次々に立ちはだかる障害に対する乗り越え方」を見る楽しみがありますね。そしてそれは「男の夢」を具現化した痛快なものだと思います。日本文学における悪漢は人材不足が否めないものの、その唯一といっても良い例外が、戦後の混乱期における手形詐欺を題材にした『白昼の死角』とのことです。といっても日本では、小説ではなくマンガがそのジャンルを全面的に引き受けていると思いますがね。それにしても、実際に盗賊団の主犯でもあったスパジアリの「憎しみも暴力も武器もなく!」というスローガンは素晴らしい。これは大金持ちの金庫を破った際の捨て台詞に使われたものなんですが、本当にカッコよすぎる。この秀逸な一言にピカレスクロマンの魅力が凝縮されているような気がします。

主に取り上げた本……『大列車強盗』マイケル・クライトン、『我が秘密の生涯』作者不詳、『白昼の死角』高木彬光、『掘った奪った逃げた』アルベール・スパジアリ、『十二の椅子』イリア・イリフ、エウゲニー・ベトロフ

 

『末はオセロかイヤゴーか*児童文学序説』

 児童文学についての段。特に「童話小説」に焦点を絞った話をしています。三人はどうやらこの分野には詳しくないようで、批評には日曜研究者の向井元子の手を借りていました。基本的に日本の児童文学界隈では、気持ちの悪い「偽善」が蔓延る風潮が根強くあると言います。それが一番に表れているのが、戦前に多くの子供に読まれたはずの『少年倶楽部』の冒険小説について、未だに黙殺され続けていることなのだそうです。冒険小説なんてものは封建的な低俗文化と見做され、評論の俎上に載せることすら忌避されるとのこと。現代で言えば、ラノベやなろう系の評論が少ないのと同じような感じでしょうかね。こうしたイヤらしい風潮は世界的に悩みの種となっているものの、童話そのものの質は海外産の方が遥かに高いようです。本書では「日本の童話は綺麗ごとばかりでみみっちい」という手厳しい批評が為されます。この頃と令和の現代とでは、多少は状況の変化もあるのでしょうが、少なくとも改善された要素は見当たりません。児童文学の評論が日本では皆無に等しいという指摘も本文中にありましたが……。

主に取り上げた本……『ガリヴァー旅行記』ジョナサン・スウィフト、『西遊記』呉承恩/君島久子・訳、『冒険者たち』齋藤惇夫、『兎の眼』灰谷健次郎、『ヘンリー・シュガーのわくわくする話』ロアルド・ダール、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』夏目漱石


『荒野のパンテオン*現代マスコミ論』

 新聞やテレビ等のマスコミに関する段。幕間として、息抜きの雑談を収録したものと推測されます。しかし、ここは残念ながら、あまり冴えない面白味の無い段でした。マスコミに対する文句ばかりだったからという理由ではありません。この当時の影響力は絶大なものがあったのでしょうが、新聞やテレビなんてものは、なんだか「語られる対象」としてはあまりにも魅力が乏しいところがあります。今となっては、マスコミなんて「底が知れる」という感が強くありますからね。とにかく精彩を欠いた段でした。

主に取り上げた本……特に目立って紹介された本は無し


『手袋の裏もまた手袋*文学のなかの政治人間』

 政治小説についての段。政治とは、突き詰めれば、人間の利害関係のあれこれを指すことができます。そこには、人間の知恵と愚昧が渦巻いて息づいているようです。フランスにおいて執政政府、ナポレオンの帝政、その後のルイ十八世による復古王政の時代を、無節操に身分を確保しながら悠々と泳ぎ切った唯一の男フーシェ。そのフーシェを陰で良いように操った怠け者で権謀術数家のタレイラン。そして、そのタレイランをしてまったくもって歯が立たなかった相手が「愚鈍で救うべからざる馬鹿」だったという事実は、笑いごとでは済まない話ですがとても面白いと思います。ここで開高は「政治を扱うと文学作品は失敗することが多い」と述べているのですが、それは別に文学に限った話でもない気がしますね。それだけに、こうしてわざわざ取り上げられた作品はどれも深い人間理解に基づいた名作であることは間違いないのでしょう。なお『神々は渇く』については、岩波文庫の大塚幸男の翻訳を「こなれていなくて青い。読みにくい」と名指しで徹底的に批判しています。

主に取り上げた本……『神々は渇く』アナトール・フランス、『ジョゼフ・フーシェ』シュテファン・ツヴァイク、『タレイラン評伝』ダフ・クーパー、『昔も今も』サマセット・モーム、『三国志演義』羅漢中、『ガリレイの生涯』ベルトルト・ブレヒト


『山川草木鳥獣虫魚*ナチュラリスト文学考』

 自然を小説の題材として据えた小説についての段。当時の日本文学には、自然観察を主眼に置いた「ナチュラリスト文学」と呼べる作品は存在せず、精々、短篇や随筆の中で自然が丹念に描写されるだけという状況でした。そうしたなか、自然を観察したものが小説として成立し得ることに注目したのがこの段になります。ここで少し気になったのは、やたらと年齢に関する話題が出てきたことです。「三十五歳を過ぎたら『昆虫記』の面白さが分かる」とか「我々は五十になってやっと分かってきた」とか。そこから発展して、若い世代、中年の世代、老いの世代のそれぞれの時代でしか書き表せられないものがあるのではないだろうかという批評に対する提言がありました。老いも若きも物書きになれる現代にこそピッタリの方法論だと思います。そして開高がアメリカの田舎町の釣具屋のトイレで見つけた「身のまわりのすべてがバラバラになるような気がしたら魚釣りにいけ」という落書き。ものすごくいい言葉だと思います。それにしてもこの段は、魚釣りを唯一の趣味とする開高健の独壇場でした。

主に取り上げた本……『鮭サラの一生』ヘンリー・ウィリアムスン、『はるかなるわがラスカル』スターリング・ノース、『昆虫記』アンリ・ファーブル


『野に遺賢 市に大隠*知られざる傑作』

 種々雑多な知られざる傑作を評価する段。ここに小説作品が何も入ってこないのは意外な感じがしました。作品が正当に評価されない要因は、理解者に恵まれなかったという「運の悪さ」に尽きると思います。たとえば『篠沢フランス文学講義』は売れないまま埋もれてしまったのに対し、『日本女地図』は売れに売れたせいで却って軽んじられ忘れ去られてしまったらしいのですが、それを向井は「知られざる傑作の両極端」と評しています。これを無理やりにでもポジティブに捉えようとするなら、知られざる傑作がどれだけ埋もれているのか、それがそのジャンルの「土壌の豊かさ」の指標となるのだ、という風に考えることも出来そうですよね。こと文学において、中央集権的な「野に遺賢なし」という状態が理想的だなんて有り得ませんからね。こう考えると無情ですが、作者が報われることがすべてではない、というところに文学の玄妙さがあるように思われてきます。

主に取り上げた本……『篠沢フランス文学講義』篠沢秀夫、『スペイン語入門』井沢実、『日本女地図』殿山泰司、『幻獣辞典』ホルヘ・ルイス・ボルヘス

感想

 以上、圧倒的な知識量を誇る三人による自由闊達な書評鼎談でした。本書は、そろそろ歳を取ってきた三人が、誰かが死ぬ前に自分たちの手で「饅頭本」を作ってしまおうとして生まれた産物になります。それぞれの段の冒頭に置かれたエピグラフも印象的に作用していますね。それにしても、今から見ると絶版本が多くて非常に残念です。この本が復活したように、何かしらの巡りあわせがあれば……と祈るばかりです。