ひっくり返れば浮き世。

書評を中心とした読書ブログ。評論、小説、漫画、詩歌など、幅広く読んでいくつもりです。

『薄氷の踏み方』

 私は学生の頃、柔道部に所属していたことがあります。その頃の思い出には不愉快なものが多いんですが、柔道を通して得た収穫というのは確かにいくつかあることにはあるんですよ。なかでも大きいと思うのは、「身体の使い方」というものが文字通り身体で実感できるようになったことではないかと考えています。それを体感する以前と以後で、身体感覚への鋭敏さが段違いに変わったのです。私にはかなり「頭でっかち」な所があるんですけれど、この経験のおかげで「人間ってのは頭脳がすべてではないんだな~」という気付きを得ました。

 そうしたなか、いつしか私は、武道家と呼ばれる人々の著作を読み漁るようになったいきました。そうして、甲野善紀の本との出会いを果たしたワケです。彼の著作から、私はかなり強い影響を受けていると思います。「この人は何が言いたいのだろう?」という気持ちと「この人が言わんとすることがものすごく腑に落ちる」という気持ちが両立するような不思議な状態。それをはじめて経験したのが彼の著作でした。感銘を受けるとはまさにこういうことなんだろうな、という衝撃……。なにしろ十代の内にこんな書き手と巡り合えたのは本当に幸運だったなと思います。

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内容紹介

 まずタイトルが良いですね。武術的な歩法のイメージが想起されます。本書は、甲野善紀と、彼とは旧知の仲である精神科医の名越康文との対談になります。終始リラックスした穏やかなムードで進行しますが、お互いに高い熱量を維持したほどよい緊迫感もあります。こういうのって、どちらかが気を抜くと途端に消え失せてしまうものですからね。すごく理想的な言論空間が現前しているように感じられました。その様は「論者は議論の場でどういう風に振舞えばよいのか」という良いお手本になるような気がします。相手を言い負かそうという下心をどちらか一方でも持ってしまうと、その途端に、こういう空気ってダメになってしまうものですからね……。

 両人ともに相手を心から敬愛し、相手の顔を立て、己の分をわきまえて話す、ということがさらりと自然に成立しています。こういう言外の雰囲気まで伝わってくるのが対談本の良さですね。そして、紹介されるエピソードのひとつひとつに得も言われぬ迫力があります。まさしく論理を飛び越した世界だと思います。欲のあることをひとつ言いますが、こういう引出しのある大人になりたいもんですね。

感想

 武道家と文筆家を兼業している有名な評論家といえば、内田樹も忘れてはいけませんよね。というより、内田樹の方がより活発に幅広く活動しているため知名度は高いかもしれません。ともかく、そういう「身体的な知」というものを追いかけている人達の自発的な発言って、どれをとっても金言なんですよ。少なくとも私にとっては、甲野善紀の発言は、それだけの重みを持ったものに感じられるのです。

 でも、不思議とご本人に会ってみたいという気持ちはまったく無いんですよね~。もし直接対面できたとしても、まあ、こちら側がドギマギしてまったくお話にならないという醜態をさらすのがオチですよ……。憧れの人とは気軽に会わない方が良いというのは、それは暮らしの中の人付き合い上でも多くの場面で当てはまることだと思います。「三尺下がって師の影を踏まず」なんて言葉もあるぐらいですからね。