ひっくり返れば浮き世。

書評を中心とした読書ブログ。評論、小説、漫画、詩歌など、幅広く読んでいくつもりです。

『人新世の絶滅学 人類・文明絶滅の思弁的空無実在論』

 昨今、冗談抜きで「世も末」という空気が漂っている感じがしませんか。先の世界大戦前もこのような不吉な空気が漂っていたと聞きますが……。大戦前当時よりも明らかに知性の劣化が著しい政治家に加えて、凶悪化する兵器の存在もあり、なんだか、何度も何度も人類は困難を乗り越えてきたということらしいですが、もう、今度ばかりはダメなんじゃないかなぁ……という諦念が今の私にはあります。

 そうした気分の時、こういう本を読むと気が落ち着くのは何故でしょうか。やはりと言いますか、宙ぶらりんの状態ってのは、人間の精神にとってなかなかにキツイものがあるような気がします。腹をくくってしまえば怖いものなどそうそうありませんよ。だからこそ、はた迷惑な死に急ぐ勇者が後を絶たないのでしょうけども……。

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内容紹介

 本書の内容は空前絶後のものであると確信しています。著者の60年もの長きに渡る研究活動の集大成ということもあって、その内容には終始圧倒されるばかりでした。「人新世(アントロポシーン)」とは、人類活動により地球環境がすっかり変わってしまったことを鑑みて、地質学にて提唱された時代区分です。それは知識として既になんとなく知ってましたが、本書のように地質学的な「大絶滅」と結び付けた論点は非常に新鮮なものに感じました。本書は「人類は絶滅に向かってまっしぐらである」ということを、懇切丁寧にデータを参照しながら粛々と論じて行く内容となっています。そこには感傷の入り込む隙がまったくありません。我々にできるのは、その内容を真摯に受け止めることぐらいでしょう。

 それから、「形而下学」と「形而上学」の二部構成になっているのも本書における大きな特色だと思います。「形而下学」とは実体のある物事を取り扱う自然科学全般のことを指し、一方の「形而下学」は実体の無い概念を取り扱う、特に哲学分野を指すことが多い用語です。文系理系に囚われない、まさに「統合知見」と呼ぶに相応しい評論だと思います。この二部構成であるところが本文中の隅から隅まで効いていて、著者が主張する内容の一貫性を補強する重要な役割を果たしています。

 

 

第Ⅰ篇『形而下の絶滅学』

 「形而下の絶滅学」とは、人類の生存環境の危機を教えてくれる知見のことです。これまでに地球では、五度の「生物大量絶滅」を経験しています。それは地質学的な時代区分の境目で見られた現象でした。現在、人類社会は活発な発展を遂げ、それに伴った地球規模の地質改変が起こっています。「完新世」から「人新世」へ。我々は地球規模の転換期にあたって、ちょうどぴったり重なる時期に生を享けた人類なのです。

 これから何が起こって人類は絶滅するのでしょうか。具体的に考えられるステップは三段階あります。

  1. 経済成長の限界と資本主義の崩壊による現代文明の滅亡
  2. 資源の枯渇や気候災害による人類総数の急速な減少
  3. 今世紀末に人類の滅亡

そして現段階では、すでに「1」のステップが現実のイベントとして目の前に控えていて、もはや絶滅のカウントダウンは秒読みの段階に来ているそうです。自然環境は人類の手によって「人工の異常気象体系」に改造されてしまてしまいました。そしてその脅威でもって人類に牙を剥いているという訳ですね。しかし、経済システムの崩壊、気温の灼熱化、工業文明による地球地質の不可逆的な悪化、水・食料・鉱物・生物といった自然資源の枯渇……。本当にそんなもので人類が絶滅し得るのでしょうか。そのような率直な疑問が私には残りました。データで示されても、すべてがそうなるわけではないという風に考えてしまいます。

 そのような考えを見透かすかのように、次篇にて展開するされるのは「人類の叡智は有効期限が切れている」という哲学の話になります。そこではっきりすることなのですが、最も深刻な資源枯渇は「知的資源の枯渇」なのです。人間が道を踏み違えてしまった原因は、研究分野の過剰な細分化がきたした「統合知見の分裂症」と、それによる「人間的叡智の滅亡」に依るところが大きいというのが、著者の主張になります。

 

 

第Ⅱ篇『形而上の絶滅学』

 「形而上の絶滅学」とは、人類の観念体系の危機を教えてくれる知見のことです。まず人間は「世界を認識する作法」を必要とする生き物になります。自然本能があまり使い物にならないため、文化によって培った「価値観」によって目の前の事態と相対する性質を持っているのです。そうして人間は、今までに自分たちに都合が良すぎる「妄想」を共有しながら、自然を好き勝手に散々いじり回してきました。その結果が、前篇にデータとして表された諸々です。

 観念の崩壊とは、すなわち「認識の崩壊」であると言い換えた方が分かり易いかもしれません。つまり、人類が気候危機の本質的な恐ろしさを未だに認識できていない要因は、観念体系が崩壊しているせいなのです。絶滅の前兆を目にしても「そんなこと起きるわけがないでしょ」と現実逃避してしまいます。ただし、現状を正しく認識しようがしまいが、差し迫ってくる「滅亡イベント」の到来は避けようがありません。そこに「絶滅学」の苛烈さがあります。

 

 啓蒙哲学という「人類が共有していた妄想」は、人類絶滅の一大駆動力として機能しました。そして役割を終えようとしている現在、その有効性を失いつつあります。では具体的に、啓蒙哲学はどのような部分がダメだったのか。著者は、今までの哲学である「啓蒙哲学」を俎上に載せ、その虚構性を暴くという大仕事をいきなりやってのけます。そしてさらに、それを「人工物の虚構叡智」と呼べるまでに「啓蒙哲学の公理モデル」として図式化してしまうのです。ここら辺りの本文を引用できないのが残念でなりません。私の文章力ではとても言い表せないほどの大偉業だと思います。というより、私が考えている以上にすごい内容かもしれません。もちろん、ニーチェやリオタールといった偉大な先人あっての仕事だと分かってはいるのですが。

 人類にとって役に立つことが善である。啓蒙哲学とは、そのような思想に基づいています。こうした考えに馴染むことそのものが、人類に特有の「悪質な驕慢さ」の基盤となっていたのかもしれません。何といっても「蒙を啓く」ですからね。そこに見える驕りは、決して言い逃れできるものではありません。

 

 では、人新世の新たな哲学は、何を思考し、何を証明するのでしょうか。著者の答えとしましては「どうしようもない現状を悟ること」という、なんとも無慈悲なものになります。著者は「啓蒙哲学の公理モデル」からさらに一歩進めて、カンタン・メイヤスーやレイ・ブラシエといった、2000年代以降に登場した新進気鋭の哲学者からの引用を行い主張します。それは、人間ご自慢の思考力や叡智がいかに無力であるかを物語る「崩壊哲学」についての主張です。それを「啓蒙哲学の公理モデル」と同じように、また「崩壊哲学の公理モデル」として図式化してしまいます。ここら辺はもう、すごいを越えてすさまじいの領域です。哲学に興味のある方は、是非ともこの後半部分だけでも良いから見てみてください。門外漢の私ですら、ここを読んだ時はかなり衝撃的でした。この数十ページに込められた労力を思うと、何だか眩暈がしてきそうです……。

 そして導き出された「崩壊哲学の公理モデル」に当てはめて、気候変動が人類にもたらす影響の本質を提示します。つまり、他の何物でもない「地球惑星環境」という「主体」に人類が脅かされているという「主体と主体の関係性」が、やっと見えるようになるのです。そこには、かつての「研究対象としての地球」などという生ぬるい関係性の介在する余地はありません。ひどい遠回りのように感じられますが、そうしなければ、もはや事態を「認識」することすらままならないという「人類の叡智」ゆえです。そのせいで、なおさら事態の深刻さに拍車をかけているのです。

 

 そして著者は、これまでの「啓蒙(道理にくらい者たちを導く)」という哲学思想の代わりに、人類がこれから志向すべき哲学体系として「絶滅哲学」なるものを提唱します。それは「啓蒙」に真っ向から反対したもので、いわば「道理の外に広がる闇」そのものを思考するための、要は「死や虚無」について思考するための哲学となります。そうして、それまでに本書にと登場した「啓蒙哲学」と「崩壊哲学」と同じく、また「絶滅哲学の公理モデル」を提示するのです。そこには、甘い見方を許さない、有無を言わせない凄味があります。

 しかし、自分で考え出したものにも関わらず、著者はどうもこの「絶滅哲学」がいまひとつ気に入らない様子でした。まあ、言ってしまえば、あまりにも身も蓋もない考えですしね。そこら辺りの解決策は、これからを担う哲学者に託すつもりなのでしょう。最後に著者は、人類が絶滅した後の涅槃のような地球を主体として切り出した「地球哲学の公理モデル」を提示します。

 

 それでも、それでもなお、人類が生き延びる方に賭けるとするならば、現代社会の崩壊を甘んじて受け止めた上で、若年世代が「最後のユートピア」を自ずから築き上げるしかないようです。その「最後のユートピア」の有力候補が、すこしだけ紹介されて本書は幕を閉じます。

 当初、著者としては「生存文明モデル」を探るための研究をしていたようです。そうした研究の結実が「絶滅哲学」だとは、なかなかに強烈な示唆があります。絶滅するにしろ、生き残るにしろ、これからの人類には史上最大の試練が待ち受けているということだけは確定事項のようですね。私たちはもっと柔軟に本気で「生きること」について考えなくてはいけません。生き残るだけが幸福ではない、という思想もこれからは大切になってきてほしいものです。

 

 

感想

 何と言ってもこの本には大変なインパクトがありました。こういう本と何の前触れもなく出会えたという巡り合わせに感謝しなくてはいけません。いやあ、すごい本です。興味のある方はとにかく手に取ってみてください。結局のところ、私にはそれ以上のことは言えません。たしかに、温暖化の危険性はいろんな人々から耳にタコができるくらい聞かされてはいましたが、ここまで具体的なヤバさを目の前に突き付けてきたのはこの本が初めてでした。それからさらにすごいのは、本書はなんと500ページ以上もあるんです。これほど浩瀚な書物をものすために有した時間と手間は如何ほどのものであったのかと、想像するだけでも気が遠くなりそうな圧巻の出来です。読むだけでも疲れますからね。特に後半の哲学パートの出来は白眉です。実を言うと私もかなり哲学書を読んできましたが、言葉遊びと言うほかない他愛ない内容に幻滅してしまうことが多かったのです。「肝心な所をはぐらかしてんじゃねぇよ」って感じで。それで言うと、哲学書として見ても、これほどの本にはなかなかお目にかかれまないと思います。

 もちろん、最初のうちは、話の内容がよく掴めないまま文章に付き合わされる苦痛な部分もあります。しかし、そこは読み進んでいけば少しずつ見当がつくようになる文章の運びをしているので大丈夫です。丁寧な説明に心を砕いた文章だな、という印象は最後まで崩れることはありませんでした。その反面、やはり文面としては硬質な感じは否めず、目が滑りやすくて読解するのに時間が掛かる文章でもあります。読み通すつもりの方は、気合を入れて、時間を作って、根気強く、本書と知的格闘に取り組んでみてください。この本は貴方にも全力で応えてくれるはずです。これは確かにすごい本ですよ。それだけは自信を持って言えます。