詩を評論をする、とは具体的にはどういうことなのか。正直なところ私にはよく分かりません。詩とは非常に個人的な営みです。そこに他人の目が付け入る隙があるのかどうか。しかし、詩を読解する、という風に言われたら、なんとなくその光景が見えてくるような気がします。
そういえば、現代詩の評論家には実作者を兼ねている人物が多いと言われています。本書にて対談を行っているである鮎川信夫と吉本隆明も詩人として名を馳せています。詩を作るプロセスを経験しないと分からないものって、たくさんあるんでしょうね。
内容紹介
内容は全部で五つの段で構成されています。
1 存在への遡行 思想と文学
2 情況への遡行 身体論の根底
近況やアメリカ文学の情勢などを語り合う段。世間話みたいな雰囲気で進んでゆくので、わざわざ読者が付き合うほどのことはない程度の内容だと感じました。1980年ごろの世相を、この二人がどのように感じていたかを知りたい人にとっては興味深いかもしれません。
3 戦後詩の危機 石原吉郎の死
主に石原吉郎について語り合う段。金銭的にも精神的にも困難な生活の中で詩作していた石原吉郎。シベリア抑留の経験を乗り越えるために詩作せざるを得なかったような彼に対して、シベリアにおける収容所体験を中心として、良くも悪くも無神経なほど深く突っ込んだ話をしているような感じがしました。
4 戦後詩を読む 戦後詩の読解
ようやく本題という感じの段。「何らかの意味で戦後詩を考えるうえでひとつのきっかけになった詩を選んだ」「大なり小なりギョッとした衝撃を受けた詩を選んだ」と本文中で述べられてあるとおり、かなり有名なほうの詩人ばかりが選ばれています。知っている詩人の場合は「なるほどなあ」となるし、知らない詩人の場合は「読んでみたいなあ」となるような良い評でした。鮎川と吉本がお互いの作品を選んだのは、企画半分本気半分ぐらいの感じだと思います。
評論している作品のことを知らなくても、作品そのものが載せられているので安心。作品を読みながら評論も読めます。ただし、なぜか岩田宏『感情的な唄』だけ作品が未収録。
鮎川信夫の十選
・「囚人」三好豊一郎
・「商人」谷川雁
・「僧侶」吉川実
・「他人の空」飯島耕一
・「空想のゲリラ」黒田喜夫
・「I was born」吉野弘
・「足利」石原吉郎
・「感情的な唄」岩田宏
・「終電車の風景」鈴木志郎康
・「小虫譜」吉本隆明
吉本隆明の十選
・「繫船ホテルの朝の歌」鮎川信夫
・「十月の詩」田村隆一
・「子守唄のための太鼓」清岡卓行
・「革命」谷川雁
・「賭け」黒田三郎
・「人民のひとり」中桐雅夫
・「われらの五月の夜の歌」三好豊一郎
・「地の人」北村太郎
・「女の自尊心にこうして勝つ」関根弘
・「理髪店にて」長谷川龍生
5 戦後の歴史と文学者 いかに死と対峙するか
主に政治的な内容を取り扱った段。この対談の前、鮎川信夫と北川透が『現代詩手帖』で黒田三郎の追悼特集の対談を行った際、そこでの発言が「詩人会議」の詩人たちとのトラブルを引き起こすという背景がありました。その内容も、なんというか、傍から見れば取るに足らないと言うか何と言うか……。しかし、当時の共産党はかなり影響力を持っていたんですね。政党のカラーやスターリニズムなどの政治思想が人口に膾炙する感じが今から見ると新鮮です。
前半は退屈でしたが、だんだんと後半は持ち直してきました。しかし、「いかに死と対峙するか」と大上段に構えておきながら、内容はかなり肩透かしな感じ。ずっと卑近的な話を行ったり来たりしていて、どうも話が深まっていかない、煮え切らない様子がもどかしかったです。護憲だの天皇の扱いだの、今日的な話題も多くありました。
確認のための解註
鮎川信夫による本対談における解註。どういうことを考えながら発言していたのか、あるいはどういうことを話したかったのかが本人の言葉で語られています。発言の背景が分かるので、こういった試みはとても面白く感じました。ただ、最後の『5 戦後の歴史と文学者 いかに死と対峙するか』についての解註は、終始、論戦相手へ向けた喧嘩腰の文章だったので、そこには少なからず閉口させられました。こういう見苦しいところがあるから、昔の文壇・詩壇・論壇に関連した文章はあまり好きではありません。そうした文章でも指摘自体には鋭いものがあったりはするんでけどもね……。
感想
事前にある程度の知識が必要な感じがあり、取っ付きにくさは否めませんが、熱量の高さを感じる対談でした。ただし退屈する場面はちょっと多かったかも。見開きごとに一つ、本文中から抜き出した見出しがあり、難解な内容でも迷子になりにくい点が良かったです。一方、現在の発言者が非常に分かりにくいのが難点でした。意味が分からないぐらい不親切です。本文中では「・」と「・・」とでしか発言者を区別してないんですよね。恐らく「・」が鮎川信夫で「・・」が吉本隆明だったと思うんですが……。
評論文とは、筆者の思考回路が一番前に出てくる文章だと思います。仮に小説やエッセイでは取り繕えたとしても、評論でおいてはその性質上、嘘を保持したままでは矛盾や食い違いだらけで成立しなくなってしまうはずです。私が小説よりも評論のほうを好んで読むのは、評論にはその人の思考と感性が文章の隅々にまで溶け込んでいるような感じがあるからです。その分、理解できない考えにぶち当たると大変な消耗を強いられる羽目になりますが……。
特に詩を評論した文章に限っては、さらに踏み込んだことまで言えそうです。というのも、自分以外の誰かの「詩の解説」を読むことは、詩に対する審美眼を鍛えることであるという側面を持っているからです。その筆者の「物の見かた」をインストールするようなイメージとでも言いましょうか。その評論としては、洞察や文章が巧みなものである必要はないと思います。素人の下馬評も立派な評論です。なので私は詩に対する感想を述べたブログを巡回するのもけっこう好きなんですよ。しかし最近はそうしたブログが絶滅してしまったかのようで、残念です。