どちらかというと、私は詩を好んで読む方であると自負しています。しかし、詩の世界とは恐ろしいほど奥が深いもので、まったく途方に暮れてしまうことが未だにあります。つまらないと思った作品を数年後に読み直してはじめて圧倒される、みたいな経験は一度や二度ではありません。自分ひとりで読んでいるだけでは、掬いきれない作者の込めた想いのなんと多いことか。
だから、詩の評論というのはものすごく難しいと感じるのです。なにか、とっかかりの無い感じ、取り付く島もないような感じがしてしまいます。でも、だからこそ、そんな分野の評論には個人的に憧れてしまいますね。将来的には、自分もこういうことが出来るようになれたらいいな、と……。
内容紹介
「00年代」の詩
2010年代の話の前に、まずは少し遡って2000年代。00年代に詩人としてデビューした「新しい詩人」と呼ばれるグループの出現に際して、「知の巨人」吉本隆明は、彼等の作品を「虚無」と一蹴しました。どんなサブカルチャーも基本的には肯定してきたあの吉本隆明が、ここまで若者をこき下ろしたのはかなり珍しいことだと思います。でもたしかに、「新しい詩人」の作品に情緒を感じ取るのは難しいのです。私の勝手な感想を書けば、彼等の詩作品は「そこらのジェネレーターで単語をいい加減に組み合わせただけのもの」という印象です。これには、さすがの吉本も同業者として看過できなかったのだと思われます。
しかし、本書の著者である野村喜和夫は、「新しい詩人」に対しても、そこまで否定的ではありません。あくまで、作品としての詩には上下貴賤などなく、よって発展も衰退もない、という立場を一貫して取っています。この意見はもっともだと思いますが、欲を言えば、著者のような識者にこそ、何か中身のある批判をしてほしかった部分です。どこか「逃げ」を張るような言い回しに感じられました。評論だから中庸の立場を崩さないというスタンスなのでしょうか。私の読み方が未熟なせいで「新しい詩人」の作品の奥深さを見出せていない、という可能性も当然あるので、なおのこと批判を読んでみたかったです。人の評論を読んで、初めてそれの「良さ」に目覚めるなんてのはよくある話ですからね。
「10年代」の詩
10年代に入ると、00年代からの「新しい詩人」的な傾向がより一層強くなって行きました。それは、東日本大震災以後にツイッターで目立った和合亮一という詩人の影響が大きいと目されています。彼は震災の直後、故郷の福島があまりにも惨たらしい目に遭った運命を呪い、激情にかられるがままに、ツイッターにてその思う所をありのまま言葉にしたのです。そのなりふり構わないやり方は、少なからぬ人々を鼓舞し、また同時に少なからぬ人々から軽蔑されました。そのため、ひとまず彼の行動への「賛否」を中心にして現代詩界隈が回っていた時期が、どうやらあるみたいなんですよね。
それでこの「2010年代現代詩のクロニクル」も最初の内はそうした騒々しい世相の真っ只中で執筆したはずなのに、そのように時の人となっていたであろう和合亮一に対して、本書中ではあっさりすぎる言及にとどめられているのが気になりました。著者は努めて客観的な立場を取っている風に見受けられますが、この話題に限っては、それは悪手だったのではないかと思います。この時期にしか書けない内容もたくさんあっただろうにな~と思うと残念ですね。せっかくの同時代史的な試みなのに。著者は「詩人の死後の生」という表現を本文中でよく用いていました。どうやら彼は「詩を後世から読み解くこと」に評論の重点を置いているようです。棺を蓋いて事は定まる、ということですかね。その後の「各詩人論」での筆致から察するに、この「10年代現代詩クロニクル」の仕事は、著者にとってもどこか釈然としない、消化不良の仕事だったのではないか。そんな余計な詮索をしてしまうほど、文章のノリが違って見えました。
そもそも「良い詩」と「悪い詩」の違いが、私にはよく分かりません。いったい、「難解だけど優れた詩」と「ただの虚無で満たされた詩」との差異はどこに存在するのでしょうか。本書中ではダダイズム関連の話もありましたが、ここはもっと掘り下げてほしかったと思います。ダダイズムと言えば、無意識の世界を記述することを目指した「自動記述」の手法で有名です。たとえば、神霊からの神示を受けたとされる謎多き『日月神示』も、岡本天明による「自動記述」の所産であるとされています。その実、そのような神秘の領域に「新しい詩人」は到達しているのではないか。でなくとも、その神秘の萌芽は起きているかもしれないのです。そうだったら面白いのにという期待も込めて、私はそうした可能性を捨てきれません。そして、そうした疑念を完全に拭い去ることができない以上、彼等の作品は私の好みではないものの、「虚無」と決めて掛かるのには抵抗があります。そもそも同時代に生きる人間の仕事を、赤の他人が評価するのはとても難しいことですからね。
それとも、詩においては作品そのものというよりも、その背後にある思想の方が重要視されるのでしょうか。「新しい詩人」には思想が無いために、「虚無」という評価を受けねばならなかったのか。考えれば考えるほど、一筋縄ではいかない問題です。抒情なんてものは、すっかり「エモい」に取って代わられて久しい昨今。そもそも、現代詩の世界といえども、もう抒情など求められていないのかもしれません。そう結論付けることさえ何も不自然ではないのです。
感想
本書は間違いなく力作であることが伝わってくる意欲的な評論でした。ただし「2010年代現代詩のクロニクル」と「各詩人論」で分別した構成は、非常に不親切であるように感じられました。特にクロニクルには不満点も多く、痒い所に手が届かないような感じがありました。もっと細部を煮詰めて、いっそのこと別々の書籍として出してほしかったです。現代詩に高い関心を持っている方にはオススメですが、そうでない人が読むと退屈するのは間違いないでしょう。どのくらい本書の内容を正確に掴めたのかと言われると、正直、私には心許ないところがあります。かなり読みにくい本でしたが、学ぶところも多くあって、私にとっては良い読書体験でした。
改めて2010年代に世を去った詩人を見るとビッグネームが目立ちますね。吉本隆明、大岡信、まどみちお、などなど……。現代詩における状況は厳しくなるばかりです。言葉は痩せて枯れて、詩人たちは次々と世を去り、人々の関心もこれ以上ないくらいに薄れてきているのを感じます。しかし、そうした状況だからこそ、本書が刊行された意義は大きいのだと思います。評論がある限りは、その分野には熱心なファンが居るという証明になり得ますからね。まだまだ「現代詩は死んだ」とは言えない・言わせないような熱量が本書には宿っているように感じられました。