詩情の源泉

「詩歌」をテーマに定めた読書ブログ。

『傾いた夜空の下で』

 岩倉文也は、とても現代的な登場の仕方をした詩人と言えるでしょう。というのも、彼は丹精込めて作り上げたであろう詩の発表の場のひとつに、敢えて旧ツイッターを選んだのです。いや、今でこそSNS上で詩を発表する人間自体は珍しくもないのでしょうけども、その昔あった140文字という制限を最大限に活かした散文詩を作れていた人間ともなれば、数はかなり限られてくるのではないでしょうか。彼の作品は、巷に溢れかえる「ポエム」などとは一線を画す出来で、心の機微を煎じ詰めたような情緒が確かにあります。新聞歌壇や詩誌への投稿も並行していたようで、現代詩と短歌のそれぞれのジャンルで受賞しているようです。そうして、あらゆる場所で彼の投稿したものがまとめられ、2018年には書下ろしも加えて一冊の本となって刊行されました。岩倉文也は、2010年代にデビューを果たした新人のなかでは、断トツで私の推しです。

 
内容紹介

 本書は、行分けしてゆくスタイルの現代詩、ツイッターに投稿された140文字ほどの散文詩、『毎日歌壇』に投稿したものを含む現代短歌の三種類の詩歌で構成されています。そのなかで私が一番良いと感じたのは短歌でした。その多くの短歌には、言葉が無駄なくキリリと引き締まったハリツヤが感じられます。ただし、いわゆる「作品の幅」は皆無に等しく、一本調子で、その世界観をまったく受け入れられない人は読み通すのもつらいかもしれません。そこがひとつ気になる点でした。しかし、それは作者の作風が既に確立されているということだから、決して悪いことではないと思います。ただ、人によっては鼻につきそうな感じがあるかもしれません。

 たとえば「荒地派」の詩人が好きな人なんかは、特に激しく好き嫌いが分かれそうな感じがしました。この詩集には、大戦後の「荒地」に寄り集まった、シリアスで切羽詰まったあの雰囲気と似た空気感があります。ただ、それだけに両者間の「視点の差異」が際立ちますね。見つめるものが「社会」か「自己」かという点において、両者は対極です。「自己」に眼差すことを「軟弱」と捉えるかどうか……。

 そして気になったのが、岩倉文也は自分の書いてきた言葉を指して「遺言」と表現することがあります。不穏で思わせぶりで、意味深な言葉です。この背後にある感情とは、いったいどういったものでしょう? その言葉だけを素直に捉えるなら、「絶望」と「開き直り」が入り混じっていて、彼の人生にはもう喜びなどないのではないかと勘繰ってしまうぐらいに暗澹とした言葉に聞こえます。でもその割には、彼の作品世界はどこか飄々としていて「寛ぎ」や「安らぎ」の気持ちが見受けられるのです。それらはややもすれば「諦念」にも似寄る感情ではありますが、もっと穏やかで静かなニュアンスがどうも彼の詩には漂っているように感じられます。メンヘラっぽい言い回しを多用する岩倉文也ですが、もしかすると実際の彼は、とてもしなやかな心の持ち主なのではないかという気がしますね。

 岩倉文也の詩は、傷ついた人々を慰めてくれるという評判です。それは、ともすれば安定した精神の持ち主が放つ「癒しの波動」みたいなものが作品に出ているのではないかという気がしてなりません。だからこそ、彼の詩歌には、赤の他人が凭れ掛かっても平気な「強度」を持っているのではないかと感じました。傷の舐め合いという以上のものがそこにはあると思います。

感想

 私は彼の作品を「良い詩だなあ」と感じているのですが、それにしても、良い詩歌とは具体的にはどのようなものを指すのでしょうかね。考えてみれば不思議なものです。そこでちょっとばかり思案してみたのですが、「作家の心の動きが表れているかどうか」ということは確かに言えそうな気がします。

 世の中には「変な言葉だけれども言い得て妙である」という、なんとも言えない表現でしか適格に形容できない気持ちというものがありますよね。たとえば「稀によくある」なんかは、よくよく考えてみれば変な言葉ですが、その言わんとする心は腹の底でとてもよく理解できます。それと「詩」は、実はまったく同じことではないか、と思うのです。大事なのは字面ではなく、その言葉を書かずにはいられない「心の動き」の方なのです。夏目漱石が志向した「非人情」の世界観ですら、その眼目は美しい景観を愛でることなどではなく、そこに美しさを見出す「人間の感性」を見据えたものです。たとえ山川草木を謳おうとも、人間の作った詩である限り、その背後には自ずと人情が宿ってしまうものなのでしょうね。